マーラーの詳細な人生年表と作品
1860年 0歳 | 7月7日14人兄弟のうちの一人としてオーストリア帝国(現チェコ)に生まれる。兄弟のうち7名が子供の時に亡くなり、グスタフは長男として育てられる。 |
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1863年 3歳 | アコーディオンに触れる。 |
1869年 9歳 | ピアノを習う。 |
1870年 10歳 | ピアノ独奏コンサートを開く。 |
1871年 11歳 | プラハに留学。 |
1872年 12歳 | いじめや成績不振でプラハから帰る。 |
1875年 15歳 | ウイーン音楽院(現ウィーン国立音楽大学)入学。弟が13歳で死去。 |
1876年 16歳 | シューベルトのピアノソナタの演奏で1等賞。 |
1877年 17歳 | ウィーン大学でブルックナーから和声学を習い交友関係が始まる。 |
1878年 18歳 | 作曲賞を受けて卒業。 嘆きの歌の歌詞完成 |
1879年 19歳 | ピアノの家庭教師になる。王立郵便局長の娘ヨゼフィーネ・ボイスルに恋するも後に失恋。 |
1880年 20歳 | バート・ハルの夏季劇場の楽長を務め、初めての指揮経験。菜食主義に。 |
1881年 21歳 | ライバッハ市立歌劇場楽長を務める。 嘆きの歌がベートーヴェン賞に落選。 |
1882年 22歳 | ライバッハ市立歌劇場楽長から退任。 |
1883年 23歳 | 作曲では食べて行けず、オルミュツ)歌劇場楽長・カッセル王立劇場の次席楽長として働く。 |
1884年 24歳 | 暮らしはあまり豊かにならず、歌手の金髪のヨハンナ・リヒターに恋をする。 さすらう若者の歌 交響曲第1番「花の章」原形を含む「ゼッキンゲンのラッパ手」 |
1885年 25歳 | メンデルスゾーンの「聖パウロ」で成功し、プラハのドイツ劇場の主席指揮者となるが生活は貧困。 嘆きの歌の歌詞完成 |
1886年 26歳 | ライプツィヒ歌劇場で楽長を務める。 |
1887年 27歳 | 困窮生活から脱出。ライプツィヒ市立劇場の主席指揮者となるも音楽監督と衝突。生涯の友となるリヒャルト・シュトラウスに出会う。ウエーバーの孫から未完オペラ「3人のピント」の補筆依頼を受ける。 |
1888年 28歳 | ハンガリー王立歌劇場監督。嫌いだったチャイコフスキーに出会う。 |
1889年 29歳 | ブダペスト王立歌劇場の芸術監督を務める。父・母・妹死亡。ワーグナーの「ラインの黄金」「ワルキューレ」の演奏で高い評価を得る。 |
1890年 30歳 | 妹とイタリアへ保養旅行。 |
1891年 31歳 | ハンブルク市立劇場の第一楽長を務める。 |
1892年 32歳 | ロンドンに招かれ称賛される。 |
1893年 33歳 | シュタインバッハ・アッター湖畔に作曲小屋を建て、1893年~1896年まで夏に妹ユスティーネ・エンマ・弟オットー、学生時代の友達のビオラ奏者ナターリエ・バウアー=レヒナーらと滞在。 |
1894年 34歳 | 交響曲第2番完成 |
1895年 35歳 | 弟が銃で自殺。 |
1896年 36歳 | 交響曲第3番完成 |
1897年 37歳 | ウィーン宮廷歌劇場第一楽長・芸術監督を務める。反ユダヤの風当たりを気にしてユダヤ教からカトリック教へ改宗。 |
1898年 38歳 | ウィーン・フィルハーモニーの指揮者を務める。 |
1899年 39歳 | 南オーストリア・マイアーニヒのヴェルター湖岸に山荘を建てる。 |
1900年 40歳 | 交響曲第4番完成 |
1901年 41歳 | ウィーン・フィルハーモニーの指揮者を辞任。将来の妻アルマ・シントラー22歳に出会う。 亡き子をしのぶ歌の作曲に着手 リュッケルトの詩による5つの歌曲の作曲に着手 |
1902年 42歳 | アルマと結婚。長女マリア・アンナ誕生。 交響曲第5番完成 少年の魔法の角笛の作曲に着手 |
1903年 43歳 | 次女アンナ・ユスティーネ誕生。 |
1904年 44歳 | シェーンベルクと出会う。シェーンベルク・ツェムリンスキーの設立した「創造的音楽芸術家協会」の名誉会長を務める。 交響曲第6番完成 |
1905年 45歳 | アンナと関係が悪くなる。マイアーニヒの作曲小屋で7番完成。 交響曲第7番完成 |
1906年 46歳 | ザルツブルク音楽祭に参加。 交響曲第8番完成 |
1907年 47歳 | 長女マリア・アンナ死亡。マーラー自身も心臓疾患と診断される。メトロポリタン・オペラに招待され渡米。 |
1908年 48歳 | 5月にウイーンに戻るが秋に再び渡米。 大地の歌完成 |
1909年 49歳 | ニューヨーク・フィルハーモニックの指揮者を務める。 交響曲第9番完成 |
1910年 50歳 | 著名人を好んで渡り歩いてきた妻アルマに、建築家ヴァルター・グロービウスと自分とどちらを選ぶか迫る。(アルマはマーラーの元へ戻る)フロイトの診断で幼児体験が原因で性的不能及び神経症になっていると診断され改善される。 |
1911年 50歳 | カーネギーホールで最後の演奏会をこなし、感染性心内膜炎となる。「自分の人生は紙切れのようだった」と言い続け容態が悪化し、51歳の誕生日直前に敗血症で亡くなる。やせ細ったマーラーの最後の言葉は「モーツァルト!」だった。 |